2015/11/22

近江坂(馬道)旧道と天増川廃村の探査

〇山行日 :2015年11月3日(火・文化の日)

〇目 的 :旧道および旧村落の探査

〇山 域 :高島トレイル

〇メンバー:Y会長・A田・N原(3名)

〇 天 気 :小雨のち曇り

〇 装 備 :日帰り基本装備

〇 行 動 :8:00 JR大津京に集合 ~ 9:30天増川(村落) ~ 10:00梨ノ木 ~ 10:40六ツ石 ~ 11:20 轆轤(ロクロ)~ 11:40 三重嶽・武奈ヶ嶽登山口 ~ 11:50 水谷 ~ 13:00 カミワリ谷出合(大御影山・三重嶽登山口) ~ 14:00 旧道らしき跡 ~ 14:20大日への尾根着 ~(尾根上探索)~15:00尾根上の導標(大御影・三重) ~ 15:25送電鉄塔 ~ 15:50 天増川源流に降り立つ ~ 能登郷跡(湿地帯、ハンノキ林) ~ 18:00天増川(村落)着 ~ 20:00JR大津京帰着
     
近江坂(馬道)は、北山クラブ(1957~)を創設した金久昌業(かねひさ まさなり)氏がもっとも心血を注いだテーマでした。1962年5月から1982年に没するまで、人生の三分の一の年月を近江坂の解明に腐心され、かつまた能登郷の木地師の生活に憧憬を抱き続けられたのである。
その探査の過程は、一編の詩的なドラマといえるが、ここではすべて割愛させいただく。
添付地図をご覧いただきたい。地図中、左端上部と右端下部にいずれも赤線で近江坂の経路が描きこまれている。この赤線に加えて、旧能登郷跡(赤丸印)が近江坂の通過場所であることは確認済みである。問題は、この天増川源流域の一体どこを近江坂が通過していたのか、ということである。
今回の山行の目的は、これらの点と線を結ぶことであった。われわれは、天増川の支谷であるカミワリ谷に見当をつけて、図中右下のピーク854に繋げたいとの予見で挑んだのである。(カミワリ谷に拘ったのは、西原が1976年5月3日の調査行において、この谷口に旧道の明らかな痕跡を見ていたからである)
そして結果は? 
またしても、と言うべきか、40年という年月はカミワリ谷出合の様子を一変させていた。不安定な天候の下、迫る時間に追われながら、3人は図中の青矢印に沿って調査を行った。途中、800ピークの尾根(大日尾根)の西山腹に数十mの旧道らしい跡を見出したものの、決定的な結論を得ることはできなかった。帰路に辿った鉄塔支尾根は巡視路になっていて、近江坂と断定するには不十分である。
われわれは、旧能登郷跡に立ち寄ったが、湿地帯に茂るハンノキがわずかに木地屋の面影を残すのみで、昔日の人臭い雰囲気はなかった。それでも、私の脳裏には、能登郷の木地師のささやかな暮らしの様子が、桃源郷のように浮かんでくるのであった。
今回の山行では、思わぬ収穫があった。それは、天増川流域にあったという旧狭山(さやま)村の4つの字(あざ)の存在を確認できたことである。期待していなかったことで、この山行を意義あらしめくれたことに感謝している。4つの字とは、下流から梨ノ木、六ツ石、轆轤(ろくろ)、水谷であり、天増川集落の上流6kmに渡って点在している。明治の5万図には “狭山(さやま)” という文字が見える(付図参照)が、これは狭山村字(あざ)梨ノ木を指す。推量するに、梨ノ木が4つの字の中で最後に廃村化したことを示唆しているものと思われる。
六ツ石の場所を特定できたのは、Y会長のおかげであるA田と私の歩く後方300mから、Y会長の大声。何事かと引き返すと、急山腹の上の台地上の杉林の中にかなりの規模の石垣が数段続いている。明らかに人家の屋敷跡である。私は、その石垣の生々しさにぎくりとした。うっかり通り過ぎてしまうところであった。六ツ石の集落跡であった。
Y会長のこの廃墟跡を見つける嗅覚はまさに異才というべきで、この後も、茶碗のかけらや、林道対岸に杣道跡の発見、など続々と・・・。ずいぶん助けられました。日本の山を民俗的・文化史的に見る氏の視点の広さや好みに共感を覚えました。
 (N原記,2015.11.21)
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